佐野洋子さんが亡くなられて早くも1カ月余りが経ちました。
11月5日、乳がんのため72歳でお亡くなりになりました。
1977年に出版されて以来99刷を重ね、178万部のロングセラーとなったとは、
彼女の亡くなった後に新聞で知ったことですが・・・
そのロングセラーとなった絵本とは、勿論
「100万回生きたねこ」 です。
そして私は 佐野洋子さんの本では、
恥ずかしいけれど、この絵本しか知らなかったのです。
でも、11月も下旬だったでしょうか?
丸善で、ど~んと平積みしてある彼女の本が目に入りました。
追悼 佐野洋子さん ・・・と書いた帯がかかっています。
この1冊を買ってきました。
読みました!
お母様と長女、洋子さんとの確執が
飾らないストレートな言葉で書かれています。
4歳の頃、つなごうとした手をふりはらわれた時から、母と私のきつい関係がはじまった。
終戦後、五人の子を抱えて中国から引き揚げ、その後三人の子を亡くした母。
父の死後、女手一つで家を建て、子供を大学までやったたくましい母。それでも私は母が嫌いだった。やがて老いた母に呆けのきざしが・・・・。
母を愛せなかった自責、母を見捨てた罪悪感、そして訪れたゆるしを見つめる物語。
裏表紙に書かれたことばより
初めて本をひらいて・・・声をだして読み始めたのです。
私、読みながら泣き、涙声のまま笑いもしました。
お母さんを見捨てたというのは、施設へ入れたからなんですが、
そこでの母さんは呆けが進み、彼女が見舞った今日は
入れ歯を失くした口だけをもぐもぐしながら眠っているだけ。
・・・・こんなところが書きはじめの部分です・・・
帰った方がいいかと思ったが、母さんのベッドにもぐり込んだ。
そして思いだしたんです。 洋子さんは
私は母さんがこんなに呆けてしまうまで、手にさわった事がない。
四歳位の時、手をつなごうと思って母さんの手に入れた瞬間、
チッと舌打ちして私の手をふりはらった。
私はその時、二度と手をつながないと決心した。
その時から私と母さんのきつい関係が始まった。
でも今は(母さんが呆けてから)母さんのベッドにもぐり込んで並んで寝ることも
手をさわることもできるのです。
これが、ほとんど狂暴とさえ云えるふり払い方をした手か。
太かった腕も棒のようで棒に皮がひっついていて、それも皮というよりしわで、しわにくっついて青い静脈が走っていた。
かわいそうな母さん。
涙がたれて来た。そして思い出した。
彼女、洋子さんは、家に帰る車の中で泣き、ベッドにもぐり込んで泣いていたけれど、
泣きながらサクラさんに電話をする。
「あんたどーしたの」
「今母さんのとこからかえって来たんだけどー、私ひどいことしたんだよー」
「何よ」
「母さん嘘つきだったの」
「どんな」
「あのね、サッチーみたいに学歴詐称したの」
「アハハそんなのどうってことないことじゃない」
「でも私やだったんだよ、ずっと。口すぼめてさ、府立第二でございますって、本当は私立の女学校なの。云ってもはずかしい学校じゃないのに。そんで、住んでるところも、本当は牛込柳町なのに、初めは牛込ですってだけ云って、どんどんエスカレートして、次は四谷でございますで、終りのころは麹町ですになったのヨウ」
「アハハ・・・・」
「そんで子供の時、母さん嘘ついたって云ったら、この子は嫌な子だ、嘘も方便ってことなぜわかんないのって、ひっぱたかれたんだよ」
「フーン・・・」
「父さんにそっくりだって」
洋子さんはお父さんっ子だったのですね!
でもその父さんは、洋子さんが19歳のときに50歳で亡くなったのね。
家の写真帳に、モダンガールの母さんの写真が何枚もあった。
もうセピア色に変わっている時の流れが大正ロマンの色である。
間違いなく母さんはモガであった。・・・・・
・・・・子供の頃化粧する母が面白くてたまんなかった。
最後に口紅をつけて口をむすんで「ムッパッ」とすると別人の母が仕上がるのだ。・・・・
子供に対しても妥協をしなかった、とてもきびしいお母さんだったようです。
そして、「ありがとう」も「ごめんなさい」も決して口にしなかった母さんが・・・
呆けはじめて・・・施設に入って・・・
その後は職員さんたちに「ありがとう」「ありがとう」。。。。って
この言葉は生れ出る時に一生に使う分を袋につめて持っていて、
それをこの時に使っているのだと思えた。。。そんなように書いてあります。
凄い。。。すご~い。。。母と娘の関係でした。
でも何故か読み終わったときに、
爽やか・・・っていうのかな~
私なんかよりずっとずっと、、、
母子の関係が濃密だったんじゃないの? って感じたのはなぜでしょう?
佐野洋子さんの次の本を買ってきて読み始めています。
ちょっと、はまった感じ??
緩和ケア病棟もクリスマスの飾りつけになりました。
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